昭和46年05月06日 朝の御理解



 御理解 第94節
 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にする様な事ではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」

 これは天地の親神様の場合でも、「清い処も汚き処も隔てなくお守りある」とおっしゃる。一様にお守りがあっておる。それが親の心情である。親と、親子の関係の場合でもそうである。どの子が可愛ゆくて、どの子が憎いと云う事はない。子供である以上どれも是もやはり可愛いのである。けれども小学校に行頃の子供と、大学行っている子供と、形の上で一様に扱うと云う事はない。
 小遣いでも、小学校に行ってる子供には百円。大学に行っている子供にも、百円と云う訳にはいかん。やはり千円も渡す。又は、より以上に渡すかも知れない。いわゆる、親の見地と云うか、親の立場と云う。これは天地の親神様が、いわゆる、清い処も汚き処も隔てなくと言うて下さるものなら、お互いの上にも一様におかげを下さりそうなものであるけれども、それが一人一人に違う。
 なら親の場合でも、小さい子と、大きい子と、子供に変わりはないし、可愛さに変わりはないけれども、やはり百円しか渡さない子と、千円も渡す子供がある。だからそれを見て、親はどうも片ひいきをすると見る子供があるかも知れませんけれども、それは同んなじである。私お取り次ぎさせて頂く者として、やはりそう云ういうなら、百円しか渡さん信者、千円も渡す信者。
 だから親先生のお取次の上に、不同の扱いをして御座ると云う事ではない事が解かるでしょう。その子が大学に行くごとなりゃ、やはり千円も小遣いを渡すようになる。昨日、壮年部会で御座いました。本当にお互いが、五人、十人で共励するのにはもったいない。この共励の模様を皆にも聞いて貰いたいと思うような共励会でした。中である方が発表しとります。先生のお祈り添えを頂いてと云う言葉がちょくちょく出て来る。
 先生のお祈り添えを頂く、先生のお取次を頂いてと言うならまだしもじゃけれども、私が祈り添えをする。そう云うものではない。皆さんもそこの所は良く、言葉の表現ですけれども、表現だけでは留まらない。先生のお取次を日々頂いておる。そのお取次の働きと云うものは、誰に強くて、誰に弱いと云う事はない。御理解を此処で聞かせて頂くのも、この御理解は誰に聞かせる御理解だと云う事もない。
 皆一様に聞いて貰うのである。受け止める側に、小学生は小学生で受け止めるのである。大学生は大学生並に受け止めて帰る。その方に申しました。「私は皆さんのことをお祈り添えをするのではない、祈って居るんだ。一日の中に何百人かのお取次させて貰う。その中には非常に深刻な問題もある。もう本当に難儀な問題を抱え込んでいる人のお取次をさして貰う。そうすると自然その難儀な人の上に、私の祈りは集中する。
 いや私のもしもう一つの姿、言うならそれを副体ともいう。霊体ともいう。私は此処に座っておっても、私のもう一つの霊体は、その難儀な人の所に行っておるであろう。そしてそこにです、その人の周囲にへばりつくようにして祈っておるだろうと。とても祈り添えなんて云う生易しいものじゃないですよ」と言って話したことでした。そうしたら、先生はやはり不同の扱いをして御座る事になる。
 死ぬ生きるかと言った様な問題を抱え込んでおる人、事実もう医者から見放されるかもわからない、見放されている病人なら病人のことを、の場合もある。そういう例えば、難儀な問題に直面をしている人の場合は、言わばその人の事ばかり祈っておる。その人達の特別の難儀を持っている人達の上に、私の祈りが集中する。いや、其処へ私のもう一つの私の体が行って、そこに付き添うようにして祈り縋っておる。
 昨日も久富先生が壮年会の中で発表しとられました。ある死ぬか生きるかという、言わばまあ病人とつ致しましょうかね。医者はもう難しい様に。お取次頂いてお願いをなさって居られる。信心のない親戚の方が心配をして、近所のお稲荷様にお願いに参った。処がそのお稲荷様で言わば祷人さんですね。言われる事は「この人はこの病人はえらい強い天満宮さんのお祈りを受けておるから是は助かる」と言わっしゃった。
 その人がとりわけ天満宮様を信心しとるわけではない。それでその人に信心がないから解からなかったけれども、それが此処へ来てお取次された時に、末永先生が、天満宮さんのお祈りを受けとると云う事は解かるでしょうもん、わからないどう云う事か。ここの親先生の事を天満宮様というて、言うて下さる事があろうが。親先生の紋は天満宮さんの紋、この紋が天満宮さんの紋。してみるとあなた方が一生懸命お縋りさせて頂いておるから、親先生が一生懸命祈っておって下さる。
 そのおかげでこの病人は助かると言われたのではないかと話して。親先生の祈りをいつも私共はこのような強いお祈りを頂いておるのだと云う事を発表されとった。所が私がならそういう、死ぬか生きるかと言った様な、まあ、おかげで死ぬか解からない様な症状が体の上に現れてきた。けれども、おかげで幾日後に息吹き返して、性根が出て、まあこれなら助かると云う所に至って。
 昨日は、まあその御礼参拝に見えたわけです。こう云う様な場合にですね、私の祈りというものは、もうその病人の側へ私のもう一つの姿というものがあるとされとります。お互い副体という、まあ霊体というてもよい。それはこう云う物の上でもそうです。此処にこういう実体があるが、この実体の影には、この影の形と云う物があるのである。副体と呼ぶそれを。霊体と呼んでもよい。
 だから、私はその副体は、その生きるか死ぬかという者の所へ行っ、て一心に縋っておる。そこで皆さんが、其処ん所に不同の扱いをして居られる様に見えるけれども、先程も申しましたように、小学生の子供に対しては百円、大学生の子供には、小遣いを百円くらいのことではでけん。やはり千円渡す。だからもちろん、ここの九十四節は、お取次をさせて貰う者に対する、御理解だと思われます、けれどもです。
 此処を、お取次願う方の側としての頂き方、そこを信じて頂きたい。それはお祈り添えを頂いておると。何かお祈りの加勢をしておる様な程度のものではないと云う事。お取次の働きというものがそこに現れると云う事は、難儀な問題、難儀な時にはやはり特別御祈念といった事もある。だからそれは不同の扱いをしておると云うのではない。それは言わば沢山なお金がどうでもその子供に必要な時、親が工面してからでも、沢山の金をその子供のために用意して上げるようなもんだ。
 それをお父さんは、あの子には千円やって、俺には百円しかくれないと、云う様な親方ではない。親の願い親先生の願いというものは、ね。いわゆる清き処も穢き処も、隔てなく祈られる親神様のように隔てない、お互い祈りを受けておるのだ。私はそういうふうに、其処の所が解からせて頂くと云う所から、手篤い信心が出来て来るとこう思う。手篤い信心が出来る。信心の篤いのが真の信者じゃと。
 祈りは一様に受けておっても、おかげを受ける、受けないと云う所がです、こちらのおかげの頂き具合。其処でいわばおかげに開きが出来て来る。自分自身がそこに難儀を感じているなら、その難儀を感じている程しに、天地の親神様も又、金光大神も、取次をして下さる先生も、その難儀を感じている度合いに応じて、その祈りが違ってくる。だからそれは不同の扱いと云う事ではない。
 言わば神様は屑の子程可愛いと仰せられる。だから屑の子の上にその祈り、その思いというものは寄せられる。けどそれは決して不同のものではない。「啼く蝉よりも、なまなかに、啼かぬ蛍が身をこがす」という詠があります。神様の場合、お願いをしても、お願いをしても、おかげを頂ききらん氏子の上に、その思いはかけられる。其処に祈りの焦点というか、祈りは集中される。
 いわゆる、そういう祈りを受けておる私という自覚が出来る頃から、言わば手篤い信心というのが出来るのじゃないかとこう思う。難儀を感じる。其処から信心が一生懸命になると云うのじゃなくて。難儀を感ずる、だから難儀を感じておる程にです、親はその難儀な氏子の上に祈りを集中される。その親の祈りに応えて信心が出来る。そこまでの信心が私は手篤い信心と云う様な事になるのだとこう思う。
 ただ尻に火が付いたように、困った時だけ一生懸命願うと云うのではなくて、本当に困っておる、本当に難儀を感じておる、その難儀を感じている程しに、神様は自分の上に祈りを送り、祈りをかけておって下さる。その祈りに感涙する。その祈りに御応えする信心、こそから私は手篤い信心という。泣いて神に願う氏子はあるけれども、泣いて、「おかげで此処がわかりました」と言うて、御礼を言う氏子は少ないとこう言う。
 今本当に難儀を感じておるから、どうぞ、どうぞと言うて願う。氏子の苦しみは神の苦しみ、氏子の難儀はそのまま神様の難儀と言うて下さる程しのこと。ですから、私が此処に真実助からなければ、何時までも神様を悲しませる事になる。神様に難儀な思いをさせる事に成る。其処が解からして頂いて行く信心。難儀だから、ただ一生懸命参っておる、お願いをして居るでなくて、自分が難儀を感じて居ればおる程、それは神様の難儀、神様の悲しみとしてです。
 自分の上に、そういう思いをかけて下さる心情がわからせてもろうて、そこを悟らしてもろうて、それに応えて信心が出来る。そういう信心を私は手篤い信者、信心の篤い信者と云うのはそういう信者の事だとこう思う。一生懸命、難儀を感じておるから参るのじゃなくて、神様のその事から解からせられること。こういう悲しみを神様にもさせておるんだと思う。その心がその次の信心になって来る。
 その為に私は今日先生が不同の扱いをなさっていないと云う様な所を解からせて頂いて、それは形の上においては百円と千円違うけれども、その願いとされる所は同じであると。いやむしろ自分が難儀を感じておれば感じておる程、お取次の働きというものはそこに集中される。自分の難儀を感ずる程神様もそこに難儀を感じて下さっておる。其処へ対し降りて行って特別の、所謂特別御祈念でもして居って下さるんだと。
 それを感知するそれを感じとらせて頂く所から、その思いに応えての信心。難儀を感ずるから信心ではなくて、其処を感じるから信心になる。そういう私は信心がです、所謂手篤い信心が出来るのであり、其処から真の信者じゃと言われる、真の信心が出来ると思う。今日は、お取次をされる先生方に下さった御理解だと思いますけど、それと私共は形の上に於いて、それと言うてはならない。そういう不同の扱いと云う事の意味のもう一つこの底にあるものを、今日は聞いて頂いた様に思いますね。
 どうぞ特別のおかげを受けなければならん時ににはやはり、特別の祈りと云う物を送られる。ですからその祈りを解からせて貰う。その思いを解からせて貰う。其処から私はその祈りに応えて信心が出来る。泣いて、どうぞ、どうぞとお願いするのじゃなくて、泣かねばならない程しの難問題を通して、神様も私の為に此の様に難儀を感じておって下さるんだ。泣いておって下さるんだと。
 其処には切な親の祈り願いといった様なものが、私にかけられておるんだ。其の事を思うとじっとしては居られないという、一つの衝動がです信心の上に現れて来る。そういう信心にならして頂く時、私は本当のいわゆる真の信心がそこから出来て来る様に思う。親の思いを、親の思いとして解からせてもろうて、それに応えて来る信心が出来て来るのであります。
   どうぞ。